便利なもので、本稿もBucharestのオープンテラスで書いています。
何が便利かは、ご承知の通りインターネットの発達です。
何度かここでも書いていますが、
電子メールで大きな情報量のやりとりが距離を超えて可能であるし、
実際に相手に接することもなく、様々な取引ができてしまう世の中なのです。
ある意味、僕らが幼少時代に夢だった「どこでもドア」が手に入ったようなもので、
場所や国家という制限を超えて、一般市民が交流する能力が劇的に高まりました。
ラップトップやスマートフォンの登場により、
ネット上の通信を文字通り「どこでも」できるようになり、
SNSの成長によって、情報やアイディアをシェアする能力が、
圧倒的に向上している現在といえるでしょう。
facebookの利用者が月間14億人近くになることは、このことを裏付けています。
何かの書籍に書いてあったのですが、
直近のアメリカにおけるPCの生産と価格の推移は、
16世紀のイングランドにおける書籍のそれと驚くほど似ているとのことです。
活版印刷の発達によって「個」の力が伸びっていったように、
インターネットの発達によって、印刷とは比較にならないほど、
速く大規模に「個」の力が伸びていって、既成の枠や組織を超えています。
チュニジアのジャスミン革命から始まった「アラブの春」は、
facebookやTwitterが主役のひとつであったことは間違いないですし、
ウクライナのヤヌコビッチ政権打倒にもSNSが一役かっていました。
個の存在が従来型の組織や支配を凌駕してしまう時代が来たと言えるのかもしれません。
一方で、政治活動などのためにSNSを活用する人は極少数とも言われています。
インターネットへのアクセスはポルノが大半をしめ、SNSは自己陶酔の交流で溢れ、
便利になったがゆえに、逆に物事に無関心になっている人も多くいる状況です。
いつでも検索できるがゆえに、関心を持たなくなる現象とでもいいましょうか。
待ち合わせや約束もアバウトで、現地で検索すれば、それで済んでしまい、
自分の居場所も自分で認識せずに、位置情報に頼るのです。
生きている実感が次第に遠くなっていくといえば、言い過ぎでしょうか。
何事もそうですが、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」。
便利になったがゆえの寂しさを大きな恩恵をうけているインターネットに感じるのです。
「どこでもドア」ではなく、たまには「タケコプター」、
否、自らの足で晴れた空のもと歩き、行き交う会話に耳を傾けるべきでしょう。
そこに、何かの情報があるかもしれません。何かの機会があるかもしれません。
便利から離れることで、利便性とか付加価値を真に感じることもあるでしょう。
PCもモバイルも持たずに、土曜日の昼下がりを歩くことにしました。
本当の「いいね!」を感じる散歩です。